はげちゃんの世界

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第36章 能登半島地震に学ぶ

2025年3月13日に北海道大学大学院理学研究員付属地震火山研究観測センターシンポジュームが開かれました。谷岡勇市郎氏、村井芳夫氏、山中悠資氏、西村裕一氏の講演がありました。概要をご紹介します。

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1 日本海沿岸で発生する地震の特徴

 谷岡勇市郎特任教授の講演

令和6年1月1日能登半島地震が発生し、能登半島は大きな災害を被りました。一年たった今の災害からの復興の途中です。この地震は、地震発生前から海底構造調査などによって海底構造調査などによって存在が知られていた海底活断層の存在が知られていた断層面を破壊することにより発生しました。

日本海東縁部の地震を発生させうる海域活断層については文部省科学省の受託事業「日本海地震・津波プロジェクト」(平成27年~令和2年)において詳細に調査されています。調査結果によると、北海道の日本海側にも多くの海底活断層の存在が確認されています。

つまり、日本海側の大地震は太平洋側の大地震のように太平洋プレートの沈み込みによるプレート境界(プレート上面)が断層面として破壊するプレート境界型地震ではなく、日本海沿岸沖に多く存在する海底活断層を破壊することで発生していることが明らかになってきました。

能登半島地震では地震断層が半島の直下にかかるほど沿岸に近かったため、直下型内陸地震と同様の強振動やそれに伴う複合災害となりました。また、地震と同時に沿岸が最大4mも隆起しため海岸にある施設も利用困難になりました。

日本海側では沿岸近くで発生した大地震により沿岸域が隆起・沈降することが過去にもありました。1872年浜田地震では震源近傍の沿岸が1~3m程度、隆起または沈降しました(場所によって隆起した場所と沈降した場所がある)。

1960年新潟地震では震源域内にあった栗島が1m程度隆起しました。さらに1993年の北海道南西沖地震では奥尻島が最大80cm程度沈降しました。これらの地震のように、日本海側の沿岸の近い海底活断層で地震が発生すると震源近傍の沿岸は大きな地殻変動(上下変動)を伴います。チラシ

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能登半島地震では震源域近傍(能登半島北部沿岸)は隆起したため、そこでの津波の被害は大きくなりませんでした。しかし、もし地震と同時に大きく隆起した場合、沈降した分沿岸の標高が低くなるため、想定よりも津波の被害は甚大化すると思われます。

北海道では平成29年に調査されていた海底活断層から多くの想定断層を決め公表しています。それらの中には沿岸を震源域に含む断層も存在し、これらの断層が破壊した場合には、能登半島地震のときのように、沿岸で大きな地殻変動が予想されます。

稚内から手塩にかけての西側、礼文島・利尻島、天売島・焼尻島、奥尻島、道南西海岸の下には海底定活断層が存在し、断層が破壊する地震が発生した場合、大きな地殻変動を伴う可能性があります。つまり、地震と共に沈降する場合には、津波の被害が甚大化する可能性があります。

北海道が想定しいる津波にはそれらの地殻変動の効果も含まれていますが、いずれにしても沿岸の近く変動は地震後も残るため、能登半島地震と同様に沿岸施設の復興には時間がかかると予測できます。

さらに、能登半島地震と同様に複合災害が発生する可能性が高いと考えられます。今後、日本海側の大地震に対する災害軽減対策を考えるうえで、能登半島地震から学ぶことは多いと思います。

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2 能登半島の余震活動 

村井芳夫准教授の講演

能登半島では2020年12月頃から地震活動が活発化し、2023年5月5日にはマグニチュード6.5の地震が発生し、最大震度6強の揺れを観測しました。2023年12月までは、能登半島東北部の陸に近い約30km四方の範囲が活動の中心でした。

2024年1月1日にマグニチュード7.6の令和6年能登半島地震が発生すると、能登半島四方から北東の海域までの長さ150kmの範囲に地震活動が一気に拡大し、海域では能登半島東北から約50km沖合の佐渡島西方沖まで地震が発生するようになりました。チラシ

大地震の後に震源断層周辺で多数発生する規模の小さい地震を余震といいますが、余震は大地震を引き起こした断層に沿って発生するので、余震の分布を調べることが大地震時に破壊した断層の形状を知ることに役に立ちます。

また、海域で規模の大きい地震が発生すると津波を伴う可能性があるので、地震活動の推移を見通すためにも、余震が発生している場所を正確に知ることが重要になります。

海域の地震は沖合で発生しているので、陸域での観測だけでは震源の位置を正しく求めるのは難しく、地震発生域真上の海底に海底地震計を設置して勧告する必要があります。そこで、北海道大学を含む全国の9大学と海洋研究開発機構は共同で、2024年2月22日~24日に26台を回収して余震の分布を調べました。

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観測は海底地震計を追加設置して2025年1月まで継続されましたが、講演では緊急観測でわかった約一か月間の余震について紹介します。余震は約18kmまでの深さで発生していて、地下構造探査の結果と比較すると、他の地域と同様に多くが上部地殻と呼ばれる部分で発生していました。

陸域のデータだけを使って気象庁が決定した震源は、海底地震観測によるものより6~10kmほど深く決まっているので、海底地震観測によって余震活動が上部地殻内で活発であることが確かめられました。

余震の震源は面的に分布していて、3つのグループに分けられ、西部のグループは南東傾斜、東部のグループは北西傾斜、中央のグループは両方の傾斜を持つものが含まれていることがわかりました。

能登半島周辺では、文部省科学省のプロジェクトによって、地震や地質の調査から日本海沿岸では地震を発生させる可能性のある断層モデルが設定されていて、余震分布は断層の傾斜核について合わない部分があるものの、断層モデルと対応していることがわかりました。

また、政府の地震調査研究推進本部によって海域活断層の地震発生の加工性が調べられていますが、余震の面的な分布を浅部に延長すると、海底活断層とよく一致することがわかりました。このように、英和6年能登半島地震は想定された断層で発生したと考えられます。

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3 能登半島地震の津波

山中悠資講師の講演

2024年1月1日に、能登半島北部周辺地域でマグニチュード7.6の地震が発生しました。この地震により、津波も発生し、北海道から日本海西部の広い範囲で津波が観測されるとともに、能登半島を中止に甚大な津波被害が発生しました。

津波後には、令和6年能登半島地震津波調査グループ(土木学会海岸工学委員会)をはじめとした多くの調査グループにより津波の痕跡や被害状況が調査されました。それらの調査結果を含む津波観測データはすでに様々な研究で利用されており、能登半島津波の全体像が徐々に明らかになってきています。

発表では津波の全体像に加え、いくつかの地域に直目し、能登半島津波がどのよう特徴を持っていたのかをお話しし、ここではその概要について述べたいと思います。

石川県能登半島飯田湾

飯田湾では能登半島北部に位置し、震源域に比較的近い関係にありました。飯田湾内の海岸線に沿った地域は最も津波被害が大きかった地域の一つです。湾内の飯田港周辺海域を撮影していたカメラ映像が残されており、その映像を分析する研究や、映像分析とシミュレーションを組み合わせた研究などが実施されています。

最新研究により、飯田湾では第一波目ではなく第二波目以降の津波が最大であったこと、第二波目以降の津波は飯田湾周辺の海底地形の影響などを受けて複雑な動きをしていたこと、などが明らかになっています。

新潟県上越市直江津

震源域からは比較的距離がある新潟県上越市直江津にも大きな津波が来襲しました。津波がどれくらいの高さまで遡上・氾濫したのか(遡上高・深水高)という観点では、直江津の津波は能登半島での津波と同等、あるいはそれ以上の津波でした。

直江津の関川河口でも津波が映像で捉えられており、これが原因解明に大きく貢献することになります。前延の飯田湾での津波とは異なり、河口で撮影された映像では第一波目の津波が最大であったことがわかりました。このように、第一波目の津波が最大になるのか、第三波目の津波が最大になるのか、津波や地域によって異なります。

富山県富山湾

富山県富山湾も震源域からは比較的距離がある位置関係にありましたが、発震後数分でその海岸沿い地域に津波が到達しました。震源域(津波が発生した場所)と富山湾の位置関係、震源域から富山湾までの経路上の海の深さを考えれば、数分で津波が到達することは時間が得られないような状況でした。

それにもかかわらずなぜ発震後数分で富山湾に津波が到達していたのか、それは海底地すべりの発生が原因であると現在考えられています。津波の発生する原因の大半は地震ですが、地震だけではありません。海底滑りが発生すればそれに伴い津波が励起される場合もあります。

今回の場合、地震動によって能登半島から離れた富山湾の海底で地滑りが発生し、これによって津波が発生したため、その海岸沿い地域では発震後数分で津波が到達したと考えられています。

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4 古文書と地質記録から探る地震津波像

西村裕一准教授

北海道西方沖の地震断層

2024年の能登半島地震は、日本沿岸近くの海底断層の活動によって発生しました。このような地震を引き起こす可能性のある断層は、北陸から東北、さらに北海道の日本海沖にかけて広く分布しています。近年発生した1993年の北海道南西沖地震、1983年の日本海中部地震、1940年の積丹半島沖地震も、同様の断層運動によるものと考えられています。

これらの地震はいずれも北海道で犠牲者を伴う被害をもたらしました。しかし、想定された断層の多くについて、地震の発生感覚や最大規模は不明で、日本海沿岸は太平洋岸に比べて長期的な予測が難しい地域です。

歴史時代の地震・津波

古文書に記録が残されている時代に発生した地震津波関連のイベントは、火山噴火のよるものを含め3例が知られています。天保5年(1834年)にはイシカリで地震が発生しました。人被害はなかったようですが、建物の被害や液状化があったことが古文書に記されています。

ただし、この地震に関する情報は少なく、津波を伴ったことを示唆する記録も存在するため、詳細は不明です。震源が海か内陸かについても、現在議論が続いています。

この42年前の寛政4年(1792年)には、小樽や美国に津波を発生させた地震が起きました。忍路湾では津波の様子は、「夷諺俗話」に生生しく記されていますが、その高さや広がりは明らかになっていません。また、1940年の積丹沖地震との類似性についても、判断が難しい状況です。

さらに、寛保元年(1741年)には、渡島半島の噴火に伴い津波が発生し、対岸の江差町や上ノ国街を襲いました。この災害で1500人以上が犠牲となり、北海道では最悪の自然災害とされています。

年代が古いにもかかわらず詳細な記録が残されているのは、被災地が松前藩の和人地だったためです。一方で瀬棚町より北のアイヌの地における被害の実態はよくわかっていません。

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先史時代の地震・津波

先史時代(文字による記録がない時代)に発生した地震の痕跡としては、津波堆積物、噴砂、地形変化があげられます。長期間にわたる地震の発生様式を探るうえで、これらの痕跡は重要な役割を果たします。

歴史時代のイベントに関しては、1741年の津波堆積物が奥尻島や江差で確認されています。一方、1993年の津波堆積物は農地の復旧過程などで焼失し現在は確認できません。奥尻島では、北海道地質研究所がトレンチ調査を行い、1741年の津波堆積物に加え、12世紀のイベントなど複数の津波遡上の痕跡を確認しました。

この痕跡では1993年の津波よりも内陸に分布しており、さらに奥尻島以外の地域にも存在するとされています。そのため、奥尻島の南にある海底断層の一つが活動した可能性が指摘されています。

先史時代の津波堆積物は、北海道沿岸では利尻島から江差町までの約10か所で報告されています。ただし、津波の痕跡と断定できないものや、年代の精度が十分でないものも多く含まれています。信頼できる情報を整理すると、後志、石狩、留萌、宗谷地方では、地震の断層モデルや発生感覚を制約する地質データは得られていません。

一方、渡島・檜山地方では1741年の津波堆積物のほか、12世紀、1500年前、2500年前、3000年前の津波堆積物が複数の地点で確認されています。

日本海で発生する津波については太平洋岸とは異なり、対岸に位置するロシアの沿海州の調査も可能です。ウラジオストック周辺では、1993年、1983年、1940年に津波被害が記録されており、手つかずの湿原ではこれらの津波堆積物も確認されています。

先史時代のイベントの年代決定には課題がありますが、今後ロシアとの共同研究が再開すれば、日本海の津波発生様式を解明する重要な手掛かりとなるでしょう。こうした研究の積み重ねにより、津波の発生履歴に関する情報は断続的ながらも増えつつあります。津波の分布

日本海沿岸を広範囲に進水させる巨大津波の痕跡は確認されておりませんが、想定されている断層が過去に津波を引き起こしたことは確かだと考えられます。今後は、液状化の痕跡との対比や、奥尻島の地殻変動地震の関係なども含め、さらなる情報の充実が求められます。

左の図は、近年および歴史時代に発生し、北海道沿岸に影響を及ぼした津波の分布を示しています。波高5m以上の範囲は、津波ごとに異なることがわかります。なお、歴史時代の津波については、和人が居住していなかた法吉道北部の情報は記録されていません。

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参考文献:など。